パンツ泥棒

パンツ泥棒はとても不思議な犯罪だ。大人として、男性として、ヒトとして、最低の犯罪であるにも関わらず、そこに人間の実に生々しい「知恵と勇気」が見て取れる。以下は一考察。

知恵とは、見えない価値のことである。
勇気とは、見えない可能性を信じる意思のことである。

パンツ泥棒ほど、知恵と勇気を駆使した犯罪はない。

そもそもパンツ泥棒たち自身、深く考えたことはあるのだろうか。
自分たちがいったいどのような価値のために、大きすぎるリスクを冒しているのか。
その価値は逮捕投獄というリスクに見合うのか。
見合わなければ行動に移すわけはないので、そこには相応の価値を感じているはずだ。

しかしそれは本当にパンツなのか?
たぶんパンツに関係していることは間違いないのだろう。
しかしおそらく、物質的なパンツが目的ではない、と思われる。
なぜなら誰もが指摘するとおり、パンツなら100円で売っているのだから。

では、パンツの使用履歴から想像できる妄想に価値を見出すのか。
そうだとして、はたしてそのイマジネーションはリスクと見合うものなのか。
そもそも、誰が使用していたのか分からないパンツを盗らなければできない妄想なのか。どうせ妄想するなら、100円で買ったパンツが使用済みであると妄想するところからはじめればよい。

しかしパンツ泥棒はパンツを盗り続ける。

なぜか。

ここであえて「パンツ」を忘れてみると、気が付くことがある。
つまり、盗る行為自体が目的になってしまっているのではないだろうか。
パンツを前提にするとどう考えてもリスクと見合わない。
しかし逆に盗る行為は、リスクが高まるほど、価値も高くなる。

たしかにパンツを盗りに行くまでは、パンツが目的だったに違いない。
しかしパンツを目の前にしたとき、目的の変換が起きるのではないか。
自分はこれを盗るだけの「知恵」があるのか。小さな可能性を試す「勇気」はあるのか。
それを試そうとする動物的な欲求が出るのは、男ならば自然なことだ。

目的はもはやパンツではない。パンツは自分の能力を試すための道具にすぎない。
脳は臨戦状態となり、アドレナリンやらなにやらが駆け巡る。
しかもスポーツのような容赦はない。
その極限の緊張状態が、さらなる盲目的な集中力を生み出す。潜在能力までをも引き出すその行為が生み出す達成感は、恍惚感さえ生み出し、能力をさらに高め、次のパンツに手を伸ばす。

そこで問いたい。その能力を活かす場は本当に夜のベランダなのか?
パンツを盗っている場合じゃない、のではないか?


火は男の狩猟本能を呼び覚ます







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